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マンスリーレポート

2011年09月

「ミッション」

 

ミッションという言葉は「任務」とか「使命」といった意味で使われています
「うちのミッションは?」ということで担う役割や責任、すべきこと・・ということでいわゆるコミットメント(約束)という言葉とも混同して使われる場合もあります
海外などに向かう派遣団などもミッションという言葉で括られる場合がありますが、これも“使命を果たす団”というところから来ているのかもしれません。(よくわかりませんけど・・)
また日本にも多い「ミッションスクール」、これはいわゆるキリスト教の学校のことを言います。
これは昔、欧米諸教会の伝導局をミッションと呼んだらしく、そこからの由来だそうです!
フランシスコザビエルの時代から日本ではキリスト教が普及し始めましたが、当時を考えると、どれくらいかけるとたどり着き、またどんな人がどれだけ居るのかわからないような国に命を懸けて上陸し、布教活動をしようとした宣教師達の心中を察するとまさに伝導師、まさに“ミッション(使命感)”なしには成し遂げられないことなのだと思います。
私の母校同志社大学も、明治維新の頃の人物、新島譲が創立者ですが・・・当時の都、京都(正式には江戸ですが・・)で、しかもキリシタンの弾圧などが多い世相の中で、まさに京都御所の横に、ミッションスクールを創った志は想像を絶します!
想像するに使命感や志なくしてはなしえません
そこに果たして民衆のニーズなどがあったのでしょうか?
作家でフランス文学者、元神戸女学院大学の内田樹先生の受け売りになるのですが・・・
このミッション系の学校も仏教や神道系の学校も、それを学びたいという人が門前に群れをなしていたので「では学校をつくろう」というような話の順番ではないのだと思います。
つまり・・・「市場のニーズ」に応えた結果建学したわけではない。
学びたいと願う若者達を“創り出さなければならない”という強い意志や使命感があって出来たのだと思います。
同志社も神戸女学院も、その他当時の頃に出来たミッション系の大学は、当時日本には全くキリスト教信者がいなかった、そこにミッションスクールをつくった、そこで教えたのはキリスト教、英語、世界史など明治初期の頃の日本にとって「実学」とはいえないものばかりです。
(今ならば英語を活かした職業に就きたいという人がそれを求めてくるのでしょうけど、当時英語運用能力に対する社会的ニーズなど全くなかった)
いわば、誰からも要請されていないところから、割り込む、押しかけていって、是非教えたい、教わりたい人がいなくても教えたいという奇妙な旗印をあげるとこが出発点だったということです。
“教わりたい人が居るから”、ではなくて、“教わりたい人を創り出すために”・・・からがスタートです。
今の大学はどうでしょうか?
少子化の影響で学生の取り合いのごとく、強烈な宣伝合戦を行なっています。
学びたがる、学びたそうなものは何かという市場のニーズに合わせて新しい学部などが出来てきています。
それはいわゆる”ミッション“とは言いがたいものです。
内田先生の持論です
「教育というのは、まず要求があってそれに対して“はい!これがあなたのお求めのものです!”と言って差し出して、その引き換えに対価を受け取るというものではないと僕は思います。
教育は商取引ではありません。
最初は無償の贈与から始まる、教わりたいという人が居なくても、”私には教えたいことがある“という人が勝手に教え始める。聞きたい人が居れば誰にでも教えますよという教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる、それに対して、”教わりたい”という生徒側に踏み込みがあって、それが両立したときに初めて”教育“が成り立つ」と・・・
そして
「”教えたい側“が踏み込んで”習いたい側“の人は、それを自分の決断でやってもらわなければいけない、”学ぶ決断だけは肩代わりできない”
教える側と習う側の師弟関係を結ぶ際は自己責任で自己決定でお互いが境界線を踏み込んでいかなければならない」
この一文を読んで身震いをしました。
学ぶことがこれだけ大切で真剣である必要があるということです。
しかし、根本的なところに立ち返ってみると「当たり前」なのだと思います。
今は学ぶこと、習うことが自由にしかもある程度義務教育課程も含めて、誰も平等にしかも自由に(というか強制的に・・・)与えられているものです。
そんな恵まれた環境であることは私たちは忘れているのだと思います。
知らず知らずに受動的な志向になっているのだと思います
私達は日々の仕事でミッションや何やと言っています。
それは、「マーケットのニーズに合わせて・・・」とか「ターゲット層を絞って・・」といった言葉や概念を使ってどうやって売るかを考えています
今の学校もそうです、学校はそうであってはいけない・・・「習いたいニーズ」があって「じゃあ学校つくりましょう」という順序では教育は成り立たないということす。
が、それは学校だけでないような気がしています!
例えばです!
長続きして繁盛している飲食店は、元来代々続く「おやじの店」もしくは「おふくろさんの店」的な店、いわゆる「個人のこだわりの店」が多いです
そんな店の多くは店の前にメニューや価格表は提示されていません、
そう「一見さん」は入ってもいいのですが到底入れません、入れないオーラです。
しかも店の中でも価格表示のあるメニューがない店、ましてやメニューそのものもない場合もあります。
まるで、「俺の言うこと聞かなければ食わなくてもいい!」といわんばかりの店です。
おまけに口数少ない“おやじ”だったりする場合が多い
しかしそんな店が所狭しと繁盛しています。
そこに「お客に迎合している」様相はありません。
しかし態度が悪いのではありません、
”真剣“なのです。
飲食店開いて“お客さんに満足与えたくない”と思っている店主などひとりも居ません
しかし迎合しない、真剣勝負で料理とお客様に向かっています!
そんな店に足を運ぶお客も真剣勝負です!
店の前に看板のない店に踏み込むのには勇気が要りますね!
そんな店主とお客の真剣勝負のある店が結果繁盛し、長続きしているのです
内装や立地など関係ありません・・・
私達のビジネスでも本当に“芯に大事なところ”はそこなのではないかと思います
「集客力のある魅力ある教育プログラム」を学校はつくっています!
お店も含めた集客施設も同様「魅力ある商品」をつくり販促物をつくります。
これはもういわゆる“ビジネス手法”の世界です
しかしビジネスの成功の可否の根幹も、いわゆる「プログラムづくり」ではいけないのかもしれません。
成功の可否は「真剣に対峙する姿勢の有無」
私達は大きなカテゴリーでいえばホテル業、集客装置業です
そしてその根幹は「コミュニティ創造業」と言っています
コミュニティが枯渇している時代といわれています
東日本大震災で、改めて"絆“とか"コミュニティ”という言葉がよく使われるようになりました
それは「市場のニーズ」なのでしょうか?
平和な時代になると自殺者率が増えるそうです。
今の日本は世界で指折りの自殺者の多い国です
もし日本に韓国のような徴兵制度があれば、引きこもりや欝(うつ)患者は減ると言われています
では「平和でないギスギスした社会になること」が日本社会のニーズでしょうか?
本当のコミュニティとは何なのでしょうか?
私はこの教育や学校の有り方から答えが見えてくるような気がします!
ミッションスクールをつくったミッションの本質はニーズの発掘や深堀りではありません
能動的な、意志、使命感、です。
私達のような小さな事業者であっても、そこは本当に大事にしていきたいと強く思います!
フランシスコザビエルは何を思って日本に漂流してきたのでしょうか?
ニーズを察知して、または期待して、胸躍らせて、漂流してきたのでしょうか?
それにしてはリスクがデカすぎます!生死をかけた漂流なのですから・・・
なので、多分違うと思います!
強烈なミッションを携えて、想像を絶する使命感や志を持って・・・そして歴史をつくった
私たちは、なぜ学ぶのか、なぜ働くのか・・・そんな原点、そんな源流を深く突き詰めていくことは1回きりの人生でとても大切なことなのだと改めて思います!